トップページへ ○現在、新(3期目)旧市議会議員通算で8期目。 農家の長男に生まれ農業改良普及員に 私は越後平野・新発田市の農家で、四人兄弟の長男に生まれました。子どものころ、農繁期には朝三時ごろから夜十時、十一時ごろまで働く両親を見て育ちました。ふとんの中で、寝ながら脱穀機の音を聞いた記憶が残っています。 新築したばかりの作業場が台風で倒壊したり、二度の水害で稲作が半分、また収穫皆無に近い状態で、経済的には大変な時期でしたが、田んぼ仕事を手伝いながら、農家の後継ぎとして農業関係の学校に進み、新潟県の農業改良普及員となりました。 赤旗出張所の仕事 東頸城郡の安塚農業改良普及所勤務(現在の上越市安塚区)となり、農政の矛盾から共産党に入って一年ほどしたころ、赤旗出張所の仕事をしてもらえないかという話がありました。考えたあげく、それならなんとかできるだろうと、引き受けました。県職を辞めるとき、実家へ帰り両親に話をすると、一瞬、声もなかったのを覚えています。あまりにも突然のことで、考えが及ばなかったのでしょう。二、三度帰って話をしましたが、了解を得られず、振り切るような形で家を出ました。駅へ向かうバスのなかで、もう生まれ育った新発田へ帰ることもないかもしれないと思うと、ひとりでに涙があふれ出てきたのを忘れられません。 赤旗出張所の仕事を十七年間勤めました。雨の日も、風の日も、真夏の汗がヘルメットからしたたり落ちる日も、バイクと二人三脚でした。最初のころは定休もなく、年何回かある休刊日が、安心して眠れる唯一の日でした。その頃は今より雪が多く、冬の雪道をバイクで走るのは非常に疲れました。くたくたになって、体が冷えきってしまい、夕方近くにならないと元の調子に戻らないこともたびたびありました。 武道空手で四十年 その後、休みもとれるようになりましたが、健康には最も気をつかっていました。そのようなこともあって始めた空手も四十年、六段教士となりました。九年前に両親の喜寿の祝いを兄弟四人でおこないました。一昨年秋、父が亡くなりましたが、母がいてくれるだけでも有難い気持ちです。 市議選に 三十五歳の時、県議選に立候補し、四年後、現職議員と交代して市議選に立候補。定数二十四名中八位で当選し、旧糸魚川市議会議員五期、その後、糸魚川市、能生町、青海町が二〇〇五年三月一九日に合併、新糸魚川市議会議員三期目で現在に至っています。 |